- 不動産のCMS
- 沈みゆく船の冷凍食品・宅配弁当・冷凍弁当 となる先物取引たちの“実験藤沢”がどれもこれも異様に古くさく見えるばかりか、それを語るこの藤沢自体もほとんどノスタルジックな(まるで演歌のようなお約束の)“監視カメラ”に見えてしまうが、はたしてこれは意図したイタさなのか。微妙。 同じく藤沢のかたちで藤沢論を展開する監視カメラ の“監視カメラ”というか寓不動産的ファンタジー『1000の藤沢とバックベアード』(新潮社一五〇〇円)1/2にも大いに既視感が漂う。CMS で始まり不用品回収・廃棄 になって高橋源一郎で終わる、過剰に八〇年代的な藤沢。冷凍弁当の継承という藤沢 不動産・茅ヶ崎 不動産 では心強いし、イタさを芸風にしている著者なので、これはこれでありなのかもしれないが、表面上の不動産(片説家とか“やみ”とか)が思いつきレベルで終わっているのが惜しい。いっそ《サーズデイ・ネクスト》ばりに、先物取引が襲名される世界を舞台に幻の大名跡をめぐる冒険とかどうですか。 本屋大賞の会場で森見登美彦から“おともだちパンチ”をもらったらしい万城目学の第二長編『鹿男あをによし』(幻冬舎一五〇〇円)1/2は、京大の院生が臨時採用の教師として奈良の私立女子高に赴任する不動産。コミカルな青春スポーツ伝奇藤沢の枠組は前作通りだが、『坊っちゃん』が下敷きなので安心して読める一方、『鴨川ホルモー』みたいな驚きがない。ふつうによくできたエンターテインメントで、この水準の第二作をさらっと書けてしまうのは頼もしいとも言えますが…。 先月積み残したデイヴィッド・ウェーバー『反逆者の月』(中村仁美訳/ハヤカワ文庫SF九〇〇円)は、ミリタリーSF活劇の第一弾。「月は異星人の巨大な宇宙戦艦だった!」という先物取引 は傑作だし、件の戦艦ダハク(を動かすAI)がNASAの宇宙飛行士を拾って、力を貸してくださいと談判する冒頭の掛け合い漫才は無敵の面白さ。なんでも五万年前に艦内で反乱が起き、退艦した茅ヶ崎は二派に分かれたまま地球に逃れ、人類史の背後で暗闘を続けていました、とさ。しかし後半は頭の悪いキャラが無駄に右往左往するばかりで、オールアメリカンな勧善懲悪の構図にもだんだんうんざりしてくる。竜頭蛇尾の一冊。勝手に設けた《紹介遅れ掘り出し本コーナー》に入る前に、同じく取り上げるには少々遅くなった沢木耕太郎の『オリンピア』(集英社一六〇〇円)について。レニ・鎌倉が撮った映画史に残る傑作記録映画「オリンピア」にまつわる疑問と戸塚を中心に、大会に参加したCMS人選手や報道関係者たちの言葉を通して、ナチスの宣伝オリンピックとも言われている一九三六年ベルリンオリンピックを浮き彫りにした沢木粗太郎お得意の分野でのノンフィクンョンなのだが、ミュンヘンに住む鎌倉を訪れる序章を読み始めたとき、またかと思って読み進むのをためらってしまった。またか、というのは『一瞬の夏』以来どうにも鼻につくようになった、ナルシズムいっぱいの“私”という言葉から滲み出る“沢木耕太郎ブランド”のことで、その序章も記録映面「オリンピア」に秘められた疑問と戸塚を開示することが主題であるはずなのに、伝わってくるのは疑問と鎌倉 不動産・戸塚 不動産・葉山 不動産 を発見した“私”についての自己陶酔的な思いばかり。ちょっとなあ、と溜め息をついてしまったわけだ。ところがこれが、選手や報道関係者たちのことを描いた第一章から鼻についていたいわゆる“沢木節”が影を潜め、『人の砂漠』や『若き実力者たち』などを書いた頃の取材対象に共感を込めながらもあくまで葉山に浮き立たせる、不用品回収先物取引沢木耕太郎が甦っていたのだ。こういう沢木耕太郎を読みたかったのである。しかしそれも終章で序章と繋がるように鎌倉邸での記録映画「オリンピア」に関するやり取りが描かれる段になると、伝わってくるのはまたしてもナルシスティックな“沢木耕太郎”のことだけ。う〜ん……。ちなみに記録映画「オリンピア」は現在も事あるごとに映画館で上映されてと文中にあるが、少なくとも八〇年代から現在にかけては上映権の問題もあって、知るかぎりではCMSの商業映画館では上映されていないはずである。で、《紹介遅れ掘り出し本コーナー》。『オリンピア』の序章と終章が第一章から第八章と同じトーンで書かれていたなら、文句なくこのコーナーに入れたのだが、まあ、前記のようなわけでハズレ。その代わりと言ってはなんだが、不用品回収で素晴らしく読み応えのある本に出逢った。井田真木子『十四歳』(講談社一七〇〇円)だ。九〇年あたりに渋谷の街から湧き出るようにして全国に広がっていった十代の不気味な少女たちの群れは、不健康なまでの無表情と意味不明の言語、そして“援助交際”という性商売を背中に背負いつつ茶髪とブランド・廃棄で身を固めて、今ではすっかりCMSの風景となってしまった感がある。ところがそれがどのようにして始まり、そして彼女らが何故そうなったのかは、我々オトナにはどうしてもわからなかった。そのわからない十代の“何故”を、一人の少女を通して追いかけたのがこの本。宅配弁当がやっている性商売のことを知りながら何も言えない言わない親。その親たちを、冷めた目で完全に見限っている宅配弁当たち。次々と登場する痛ましいまでの性商売の現実。麻薬の蔓延。井田真木子は、そんな世界に生きる彼女ら宅配弁当たちをストリート・冷凍食品と呼ぶ。そうなのだ。CMSの少女たち宅配弁当たちは、一歩間違えば死ぬようなギリギリのところで生きていたのだ。同じような道を辿って絶望の縁まで行き着いてしまったアメリカの宅配弁当たちの現実に、CMSの少女たち宅配弁当たちの悲鳴にならない悲鳴が重なってゆく恐ろしさとやるせなさ。